無傷害化学剤

自衛隊中央病院 箱崎 幸也・越智 文雄・宇都宮 勝之

無傷害化学剤

人を一時的に無力化する物質であり、催涙/嘔吐剤(CS/CN/DM)や無能力化剤(BZ・大麻・LSD)がある。

A 無能力化剤(BZ)

無能力化剤に属するものは、LSDとBZが有名である。ベンジル酸-3-キヌクリジニル(BZ)は、アトロピンに似た副交感神経遮断作用をもち、中枢神経作用が強いのが特徴である。粉末でエアゾルとして散布され、気道から吸収され中毒を起こす。空気中濃度110mg/m3で攻撃相手が無能力状態となることから、無能力化剤と呼ばれている。BZはLSDよりも、はるかに安価でしかも強力である。
臨床的には精神症状が特徴的で、わずかな量でも明らかな陶酔感から深い絶望感までを示す。
被曝後1〜4時間で、アトロピン様症状(散瞳、口渇、頻脈)、めまい、見当識障書、錯乱、混迷がみられる。4〜12時間後では、予測不能な異常行動や錯乱を伴い環境変化に適応できなくなる。
2〜4日目でほぼ正常に回復し予後は良好であるが、記憶喪失などは6週間も持続する。しかし、攻撃性や狂暴性がかえって高まることがわかり、化学兵器としては不適とされている。
現在はロシアや旧ユーゴスラビアに、備蓄があるとされている。治療には、フィゾスチグミン筋注が有効とされている。

B 嘔吐剤(くしゃみ剤:アダムサイト, DM)

DMはフェニル基をもつヒ素化含物で、催涙剤の作用と類似している。DMは皮膚や眼に対する刺激性は少なく、鼻、副鼻腔など上気道への刺激作用が強く、前頭部の激痛や耳、顎、 歯に痛みを感ずる。高濃度曝露では、胸痛、呼吸困難、嘔気、嘔吐、めまい、ふらつき、抑うつ、全身倦怠感などの症状か出る。
DMは嘔吐剤またはくしやみ性ガスとも呼ばれている。DMの効果は曝露後3〜4分で始まり、1〜2時間は持続する。

C 催涙剤(CS、CN)

特性

刺激剤、催涙剤、催涙ガスなどと呼ばれ、一時的な「失明状態」を作りだす。広い安全域を有している。

徴候と症状

薬剤に暴露した粘膜、皮膚の灼熱感と疼痛、眼の疼痛と流涙、鼻腔内の灼熱感、呼吸困難。

除染方法

水、生理食塩水、もしくは類似薬を用いて徹底的に洗浄する。大概の場合、風が十分に強ければ除染する必要はない。

検査法

特異的な検査はない。

治療

通常は必要ない。薬剤の効果は自然に消失する。

概要

刺激剤、催涙剤、催涙ガスなどと呼ばれ眼に対して最も鋭敏で、曝露直後に一時的な失明状態(数秒〜15分間)を作りだす。被災者が戦ったり抵抗したりすることを、一時的に不可能にするものである。
治安機関は暴動の鎮圧のため、軍は訓練や戦闘において使用する。この薬剤は致死量域が高く有効量域が低いために、広い安全域を有している。
主な症状は曝露粘膜や皮膚の疼痛、灼熱感、不快感であり、曝露から数秒以内に出現し、曝露終了後数分以内に消失する。
パリ警察は、第一次世界大戦以前から暴動を鎮圧するのに催涙/嘔吐剤を使用していた。フランス軍も小戦闘において、催涙/嘔吐剤を限定的に有効に使用していた。
第一次世界大戦の後、軍隊や法的治安機関は様々な目的にCN(クロロアセトフェノン)を用いていたが、1928年にCorsonとStoughtonによって開発(そのためCSと命名)された、より強力でより毒性の少ないCS8オルトクロロベンジリデンマロノニトリル)が1959年頃から使用されるようになった。
米軍は主として地下壕排除の目的で、ベトナムでこの薬剤を使用した。現在、催涙ガスとして警察や軍隊が使用しているのはCN・CSとジベンズオキサゼピン(CR:イギリス製)の3種類である。

特性・作用機序

催涙/嘔吐剤は揮発性の少ない固形物で、微粒子や溶液中に溶解することによって散布される。催涙ガスとして使う時は、粉末のままあるいは溶媒に溶かし噴射させる。
CRは水中でも刺激性を保つので、水と一緒に高圧放水ノズルて吹き付ける方法もとられる。散布用の機材として、小型の携帯用のスプレー缶、大型の噴霧器、手榴弾そしてより大型の兵器が使用される。
催涙/嘔吐剤の作用機序は、あまりよく解明されていない。
CS、CNはSN2のアルキル化剤であり(マスタードガスはSN1のアルキル化剤)、乳酸脱水素酵素などのSH基を有する酵素系の不活性化が組織傷害に関与していると考えられている。
疼痛は組織傷害とは無関係に生じ、ブラジキニンに起因すると思われる。エアロゾル化したCSの初期生体反応は、血圧上昇と呼吸困難である。この初期反応は、CSの直接の薬理作用より剤の刺激性に対する反応と考えられる。

臨床症状

催涙/嘔吐剤の主たる効果は、曝露粘膜や皮膚の疼痛、灼熱感、刺激感である。DM(アダムサイト)以外では、臨床症状から特定薬剤の同定は困難である。
通常濃度の曝露では、症状は数秒以内に出現し、曝露中止後の数分以内に消失する。高濃度を吸入すると、ホスゲン吸入と同じ病態を呈する。建物やシェルター内などの閉鎖空間では致死濃度に達し死亡(※20) したり、喘息など既往の呼吸器疾患増悪や後遺症が報告されている(※21)。死亡例は重篤な呼吸障害で、最初の曝露から数時間後に起こる。

視覚系

眼は催涙/嘔吐剤に最も敏感な器官で、剤に被曝すると10〜30秒以内に角膜、結膜に灼熱感を生じ、流涙、眼瞼痙攣、結膜充血が起こる。重篤な眼瞼痙攣は強力な閉眼状態を生じ、一時的な失明状態にする。
時に角結膜炎、角膜実質の浮腫、ぶどう膜炎、前房蓄膿などの組織障害がみられ、特にCNに強く出現する。これらの恒久的な障害は、殆どが自爆など、大量曝露時に、剤が組織内に深く埋没することで生じる。
通常の使用では、起こらないと考えられている。曝露後に眼疼痛を有する者には、十分に眼の洗浄を行い眼科的検査を実施すべきである。

皮膚

刺激痛や灼熱感を伴う紅斑がみられ、特に表皮の剥離部位(例えば髭剃りの直後など)では出現しやすい。紅斑は曝露後数分で出現し、45〜60分で消退する。
高温、多湿、高濃度の薬剤などの場合には、紅斑は数時間持続し引き続き水疱形成がみられ、重篤な皮膚炎(第2度熱傷に類似)を生じることがある。1度だけCSに曝露された人が、20年後の再曝露で全身の水疱形成と高熱がみられた過敏症例が報告されている。

呼吸器系

剤が鼻粘膜に接触すると灼熱感、鼻漏、くしゃみが起こる。また、口腔内でも唾液分泌増加と灼熱感が生じる。吸入後直ちに気道の灼熱・刺激感を生じ、気道分泌増加と咳嗽がみられる。
さらに、胸部絞扼感や呼吸困難を呈するが、呼吸機能検査ではわずかな変化しか認められない。医学的証拠には乏しいが、高濃度曝露時には喘息、肺気腫、気管支炎などの慢性肺疾患の悪化が危惧されるため、肺疾患の既往を有する人では医療従事者はこれらを予測し対処しなければならない。
動物実験や乏しい過去の症例では、最大の影響は曝露後12時間後に起こる。通常の使用濃度のCSに1〜数回曝露しても、恒久的な肺障害は起こらない。

その他

消化管に影響は及ぼさないが、高濃度曝露時には嘔気/嘔吐が起こる。心血管系では、一過性の心拍数増加や血圧上昇が認められるが、大部分は不安によって惹起されたものと考えられている。

鑑別診断

被曝状況や瞳孔に異常所見を伴わない結膜充血や流涙などの身体的所見から、診断は比較的容易である。
突然生じる灼熱感や刺激感はルイサイトやホスゲンオキシムを連想させるが、催涙/嘔吐剤の場合は兆候や症状は徐々に消失していく。びらん剤による症状は、徐々に悪化傾向がみられる。

検査所見

診断に役立つ特異的な検査法はない。皮膚病変の感染のような合併症は、その合併症に特有の検査所見を呈する。

治療

通常は特別な治療は必要とせず、ほとんどの症状は曝露終了後15〜30分で消失する。紅斑だけは、1時間以上持続することもある。
催涙/嘔吐剤に曝露した場合、症状が重篤であったり遷延化する症例は1%以下である。そのほとんどは眼、気道、皮膚の症状を訴える。催涙/嘔吐剤に対する解毒剤はないため、治療は基本的に対症療法のみである。

眼障害

水か生理食塩水で十分に洗浄し、異物が入り込んでいないことを確認する。一般処置としては刺激緩和のための点眼薬と局所への抗生物質を使用する

皮膚障害

紅斑だけでは、特別な治療は必要ない。1〜2時間以上持続する時は、カラミン、カンフル、メントール入りクリームなど皮膚保護剤が必要なこともある。小水疱はほぼ完全治癒するが、大水疱は破れ易いので内容を吸引しておいた方がよい。剥離部分は1日に何回か洗浄し、局所的に抗生物質を使用する。

気道障害

高濃度曝露および低濃度頻回曝露で、喉頭炎と気管炎が生じる。喘息の既往者では喘鳴を伴う気管攣縮や軽度の呼吸不全が曝露後数時間持続したり、慢性気管支炎や肺気腫患者ではより重篤な症状と呼吸不全が起こることもある。対処法として、酸素吸入(必要であれば補助呼吸も実施)、気道攣縮の場合は気管支拡張剤、喀痰の検査(塗抹標本のグラム染色と培養)の結果で抗生物質投与、などを行う。
致死量を吸入させた動物実験では、曝露後12〜24時間後に気道障害によって死亡するが、生存例では肺障害は極軽微である。

除染方法

多くの場合、風が強ければ除染する必要はない。眼は、水または生理食塩水を用いて徹底的に洗浄する。
皮膚は、大量の水、アルカリ性石鹸水、弱アルカリ性溶液(重炭酸ナトリウム/炭酸ナトリウム溶液)を用いて洗浄する。次亜塩素酸は皮膚病変を悪化させるので用いてはならない。

トリアージ

通常濃度の催涙/嘔吐剤に曝露された人は、軽症でありトリアージを必要としない。合併症患者では、その症状にあわせてトリアージしなければならない。

無傷化学剤の特性

  化学名 名称 略号 物理的状態 臭い 発現性
無効力化学剤 3-クイドヌクリニジル - BZ 固体 - -
ベンジレート - - - - -
リゼルグ酸ジメチルアミド - LSD25(参考) - - -
暴動鎮圧剤 2-クロルベンザルマロノ OCBM CS(CS1、CS2) 白色結晶 コショウ臭 2〜3秒
ニトリル - - - - -
δ-クロルアセトフエノン CAP CN 白色結晶 リンゴの花臭 2〜4秒
- アダムサイト DM 黄色
緑褐色結晶
ほとんどなし 2〜5分