びらん剤(マスタード、ルイサイト、ホスゲンオキシム)

自衛隊中央病院 箱崎 幸也・越智 文雄・宇都宮 勝之

びらん剤(マスタード、ルイサイト、ホスゲンオキシム)

特性

マスタードは油っぽい淡黄色-茶色液体で、臭いはニンニク、芥子(マスタード)様である。マスタード曝露では、直後から組織障害が起こるが症状/徴候出現は数時間後である。ルイサイトやホスゲンオキシム曝露では、直ちに症状や徴候が出現する。

徴候と症状

皮膚の紅斑と水疱が特徴的である。蒸気曝露では、眼の刺激症状・充血や結膜炎、上気道の刺激症状起こる。大量曝露時には、出血性肺水腫、骨髄幹細胞障害(汎血球減少)、消化管障害(難治性嘔吐・下痢)がみられる。

除染方法

次亜塩素酸または大量の水。

検査法

血液/組織中のマスタードを検出する検査法はない。

治療

特異的解毒剤はなく対症療法が主であり、迅速な除染が障害軽減の唯一の方法である。遅い除染であっても、重篤な障害を予防する。ルイサイトには拮抗薬「BAL」が存在する。

硫黄マスタード類

概要

びらん剤には、硫黄マスタード、 窒素マスタード、 ルイサイト、 ホスゲンオキシムがあるが、テロ攻撃において最も脅威となるのは硫黄マスタードであり、本章で「マスタード」と述べる場合は基本的には硫黄マスタードを指している。窒素マスタード、ルイサイト、ホスゲンオキシムは、戦場で使用された形跡はない。
ルイサイト(L)は第一次世界大戦後期に合成され、びらん剤の中では唯一ルイサイトにのみ解毒剤のBAL(British-Anti-Lewsite)が存在し、現在BALは重金属キレート剤として医療分野で用いられている。ホスゲンオキシム(CX)は、腐食/掻痒性びらん剤である。
全てのびらん剤は気温上昇で、揮発し蒸気曝露にて、眼、皮膚、気道を傷害し、曝露局所のびらん、灼熱感、組織損傷が特徴的である。皮膚のびらんが特徴的であるため、びらん剤と呼ばれている。ルイサイトとホスゲンオキシムは曝露後から局所の痛みと発赤がみられるが、マスタードは遷延性で曝露初期には軽度の不快感のみで数時間後に重篤な症状が引き起こされる。

マスタードは1800年代から開発され、フランスではイペリット、英国ではカラシ臭からマスタードガスと呼ばれた。1917年第一次世界大戦中ドイツ軍が使用し、約2,000人が負傷したが死亡率は5%以下であった。
1930年代にアビシニア(現エチオピア)に対しイタリア軍が他の毒ガスと一緒にマスタードを使用、1960年代にエジプトがイエメンに対しマスタードを使用した。
イラクは1980年代にイラン及びクルド人に対しマスタードを使用し、死傷者は45,000人にも達した。この時の死亡率は、第一次大戦と同様に5%以下であった。
このことからも、軍事的にマスタードは敵の戦闘員の致死を目的としたものではなく、戦闘員の能力を長期間奪う持続型の化学兵器である。マスタードは製造・貯蔵が容易であり、現在でも軍事的戦略だけでなくテロへの対処という点からも重要である。

特性・作用機序

硫黄マスタード類には8種類のマスタードがあり、マスタード(HD、精製マスタード)が代表である。このほかにセスキマスタード(Q剤)、O-マスタード(T剤)などがある。いずれも毒性官能基 -SCH2CH2- をもっている(※3)
マスタードは、油っぽい液体で色調は淡黄色〜茶色を呈している。臭いはニンニク、タマネギ、マスタード様である。ただし、人の臭覚は直ぐに鈍麻してしまうので臭気を検知に信用してはならない。
マスタードは14〜38℃では液体、38℃以上ではゆっくり気化し蒸気による危険性が増大する。マスタードは約14℃以下では固体であるが、凝固点の低い物質(例えばルイサイト)と混合するとより低温でも液体にすることが可能である。
マスタード類は、接触により組織障害を引き起こす。毛穴からも容易に体内に吸収され全身を傷害する。粘膜・眼・気道はマスタード類への感受性が高く、傷害部位の化学熱傷を引き起こす。マスタード類は、体の中に入るとClが取れて中間代謝産物をつくり、細胞レベルでDNA、RNA、膜タンパクなどをアルキル化と架橋形成によって組織破壊を引き起こすと考えられている。
皮膚では表皮〜真皮結合のアンカリングフィラメントのプロテアーゼによる分解と水疱形成を引き起こすとされている。この細胞障害は、粘膜上皮、表皮基底層にある角化細胞、骨髄細胞など分裂が盛んな細胞でより細胞死と炎症反応がみられる。
マスタードは軽度コリン作用を持っており、早期の消化器症状や縮瞳の原因となる。マスタードは、初期の皮膚障害から数日〜数週間後に造血器官(骨髄)を障害し生命に危険を及ぼす。マスタードは体内侵入後、組織と数分以内に反応しそれ以上は反応しない。血液、組織、水疱内液はマスタードを含まず、体液や組織に接触しても周囲の人々への被曝はない。

臨床症状

マスタードの症状は、曝露量(Ct)で決まり、特に眼、皮膚、気道に障害が出現しやすい。全身に吸収されたマスタードは、骨髄、消化器、中枢神経系に影響する。消化管への直接障害は、マスタードの嚥下により生じる。
第一次大戦時の米軍とイラン・イラク戦争のデータからは、眼、皮膚、気道症状は各々80〜90%の発症率であった。しかし、イラン・イラク戦争では高温下での蒸気曝露のためか、第一次大戦より眼、気道障害の発症が高率であった(※10)
マスタードと他のびらん剤との違いは、症状発現の仕方である。ルイサイトやホスゲンオキシムは眼、皮膚、気道に直ちに灼熱感、疼痛を引き起こすが、マスタードに曝露しても直ちに症状は出現しない。このため曝露に気づかず除染が遅延したり、さらなる曝露を防ぐことができない。
数分間のマスタード曝露後、眼の障害が通常1〜2時間で出現し、2〜24時間後に重篤な疼痛、発赤、びらんを発症する。大量曝露した患者は、広範囲な皮膚、粘膜に化学熱傷を生じ、疼痛、失明、呼吸困難が主な症状である。

マスタード曝露時の皮膚症状の出現時期(※11)

皮膚症状 出現時期
発赤の兆候 1時間
明らかな紅斑 2〜3時間
浮腫を伴う紅斑 8〜12時間
水疱発生 13〜22時間
水疱最大化、
一部壊死
42〜72時間
ぴらん面露出 6〜9日
壊死組織・剥離 20〜28日
治癒 22〜29日
皮膚

マスタードが、皮膚に付着すると80%は気化し20%が皮膚に浸透し、皮膚傷害は治癒するなでに数週間から数カ月を要する。微量のマスタードは分解しないまま表皮に残留するが、30分以内に消失しマスタード自体が皮膚に残留することはない。
マスタード曝露後の初期の皮膚症状は紅斑であり、日焼けに似て掻痒感や灼熱感を伴う。紅斑は蒸気曝露後2〜24時間後に生じ、発現までの時間は濃度時間積、周囲の温度、湿度、曝露された皮膚の部位によって異なる。温度、湿度および皮膚の湿潤度が高いほど、マスタードの浸透が早く短時間で重症化しやすい。
皮膚で最も感受性の高い部位は、高温で湿った薄い皮膚の会陰、外性器、腋窩、前肘窩、頸部である。皮膚傷害は、潜伏期の後に紅斑形成、水疱形成、表皮の剥離、びらん、潰瘍形成さらに壊死の順で進行する。
数時間の潜伏期の後、表皮の細胞の核に空胞化と融解がみられ細胞は液化壊死を起こす。液化壊死は、細胞の分裂と代謝が盛んな表皮の基底層に起きやすく、時間の経過とともに互いに癒合し水疱を形成する。
典型的な水疱は、大きくドーム型で壁は薄く、黄色調・透過性で紅斑に取り巻かれている。水疱液は経時変化で凝固傾向にあるが、水疱液中にマスタードは在在しない。液剤などの大量曝露では、中心に凝固壊死を、周辺に水疱形成を生じる。この病変は少量曝露の病変に比べ治癒に時間がかかり、二次感染を生じやすい。

呼吸器系

初期症状は鼻や咽頭にみられ、外鼻腔の刺激、灼熱感、出血や咽頭の刺激や痛みである。気管、 気管支の障害は喀痰を伴う咳嗽を生じ、下気道障害では呼吸困難や大量の喀痰を伴う咳嗽を生じる。最終的には、終末気管支の壊死を伴う肺水腫を生じる。
気道の初期病変は、粘膜壊死と大量曝露時の筋組織の障害である。この障害は容量依存性に気管から肺に移行し、気道粘膜の壊死は偽膜を形成し気管支の閉塞を引き起こし、末期には終末気管支と肺胞が障害される。マスタード中毒による死亡は、大抵は呼吸不全による。偽膜による機械的閉塞も原因となり、曝露3〜6日後に死亡する。主な死因は、剥離、壊死した気道粘膜への細菌感染による二次性細菌性肺炎である。被曝による骨髄抑制は、肺炎から敗血症を生じる原因ともなる。

視覚系

眼は、マスタード蒸気障害に最も感受性が高い。潜伏期は皮膚より短く、曝露量(Ct)依存性である。少量蒸気曝露後、眼の刺激、充血が唯一の症状である。
被曝量が増すにつれ障害も進行し、結膜炎、 羞明、眼瞼痙攣、疼痛、角膜損傷を生じる。第一次大戦中、軽度結膜炎は眼障害の75%で治癒に1〜2週間を要した。重症結膜炎、眼瞼痙攣、眼瞼浮腫、角膜変性の頻度は、15%で回復に2〜3週間かかった。軽症角膜損傷は10%、重症角膜障害は1%以下であり、失明は約0.1%であった。

その他

マスタード曝露はたとえ少量でも、約24時間持続する嘔気(嘔吐は時に伴う)を生じる。
しかし、マスタードによる重篤な消化器障害の報告は比較的稀である。嘔気・嘔吐はマスタードの消化管への直接作用より、ストレス反応や臭いに対する非特異的反応と考えられている。下痢や便秘も同様と考えられているが、大量曝露数日後にみられる下痢(血性はまれ)や嘔吐は予後不良を示唆する。中枢神経系への影響は明らかではないが、動物実験ではマスタード曝露で痙攣を誘発する。
また、人でも大量曝露後、数時間以内の死亡直前に神経精神症状を発症した症例報告がある。
第一次大戦中やイランの報告では、少量のマスタード被曝でも人は無関心、無気力などの軽度の精神症状が1年以上持続したとされている。骨髄幹細胞障害としては、大量曝露後3〜5日後に急激な白血球減少を特徴とする、汎血球減少がみられる。易感染性に陥りやすく、二次性感染症への注意を要する。

経時変化

マスタードは接触後、数分以内に組織と不可逆性に結合し、障害を惹起する。除染以外に有効な予防治療法はなく、遅い除染であっても重篤な障害を予防する。マスタード曝露では、臨床症状や徴候(痛み/痒みを伴う紅斑や水疱)を生じることなく、接触後数分以内に組織障害を引き起こす。ルイサイトやホスゲンオキシム曝露では、直ちに症状や徴候が出現する。
マスタードの臨床症状は遷延し、大量曝露時でも症候の発現まで約2時間かかる。少量蒸気の曝露時、無症状期間は約24時間である。大量のマスタード被曝後、数時間以内の死亡例の報告があるが、極めて稀である。典型的潜伏時間は、4〜8時間である。マスタード曝露量(Ct)、周辺の天候、曝露された身体部位が、発現時間を決定する。

マスタードガスの身体的影響

損傷部位 重傷度 症状 発症までの時間
軽症 流涙、掻痒感、灼熱感、異物感 4〜12時間
中等度 眼瞼発赤、浮腫、疼痛 3〜6時間
重症 著明な眼瞼浮腫や疼痛、角膜障害 1〜2時間
気道 軽症 鼻汁、くしゃみ、鼻出血、嗄声、乾性咳嗽 12〜24時間
重症 息切れ、重度乾性咳嗽 2〜4時間
皮膚 軽症〜重症 紅斑(発赤)、水疱 2〜24時間

※上記症状に加えて

鑑別診断

びらん剤の中では、マスタードは直ちに疼痛を生じない唯一の物質である。被災者は数時間後、病変が出現するまで無症状である。
一方、ルイサイトやホスゲンオキシムは液体でも気体でも、眼、皮膚や気道に直ちに疼痛や刺激感を生じさせる。直ちに除染や防護マスク使用がなされるため、これらびらん剤の病変はマスタードほど重症化しない。孤立小水疱は、マスタード被曝、毒ツタ、薬剤、その他物質の曝露の可能性がある。
マスタードとルイサイトの水疱は少し異なり、ルイサイトでは水疱周囲に紅斑は少ない。病変部の性状は特有なものはなく、鑑別診断には有用でない。

検査所見

マスタード被曝を裏付ける検査法は、現時点では存在しない。吸収後、数分以内に生体内で変化し組織と結合するためである。現在、マスタード代謝物の尿中チオジグリコールの検出法が開発が試みられている(※11)
白血球増多は被曝直後から生じ、以後の増加の割合は組織障害、主として皮膚や肺組織の障害程度と関連する。
もし大量のマスタードが全身に吸収された場合、白血球は、骨髄幹細胞障害を反映し、3〜5日後から減少し始める。この減少は急激であり、1日5,000個以上減少することもあり、白血球数500/mm3以下は予後不良である。骨髄障害が重篤であれば赤血球や血小板も減少し、致死的である。肺炎の徴候は吸入曝露後、2〜3日以内に現れる。白血球増多、発熱、喀痰は細菌性感染を示唆するが、この時期の喀痰培養は陰性のことが多い。
曝露後3〜5日目頃より二次性の細菌感染を併発しやすく、熱型の変化、白血球増多、 喀痰性状の変化が認められる。喀痰グラム染色と培養は、起因菌同定のため必須である。皮膚病変でも浸出液増加・炎症反応増強時には、培養検査をしなければならない。

トリアージ

マスタード被災者の殆どは、最小治療群(黄)か治療待機群(緑)にトリアージされる。
皮膚熱傷面積が全身の50%を超える患者は、ほとんどが死亡群(黒色)となる。50%以下の患者は、更なる処置を必要とするが直ちに救命処置は必要としない。5%以下の患者は治療待機群(緑)にトリアージされ、病院到着まで自分自身あるいはバイスタンダーが行う処置のみである。
マスタードによる眼病変では、早期処置にても病変が改善することは少なく、最小治療群(黄)に分類される。マスタード被曝で唯一、緊急治療群(赤)にトリアージされるのは、中等症〜重症の呼吸器徴候や症状を訴える患者である。しかし、被曝後4〜6時間以内に重症呼吸器症状を呈する患者は非常に予後不良である。

治療

救急治療(※12)

びらん剤での曝露患者の処置で最も重要なことは、迅速な除染である。組織障害を防げるのは、数分以内に除去したときだけである。時間経過後の除染でも、組織障害の進行を妨げる効果があるため、有用である。
大量の水で直ちに洗浄するのが望ましく、眼の洗浄には生理食塩水が適している。損傷部位への救急処置は通常の化学熱傷と同様で、皮膚損傷には乾燥した清潔なガーゼをあて、重篤な眼損傷にはアイパッチをする。
少量曝露では対症療法で十分であるが、大量曝露時の多臓器不全時の治療は非常に複雑である。
さらにこの様な患者では強烈な痛みを伴い、モルヒネ等の麻薬鎮痛剤を必要とする。体液漏出は重症熱傷におけるほど多くはなく、大量補液は必要としない。

皮膚障害

皮膚病変の灼熱感や刺激感を軽減させるため、ローションクリーム(0.25%カンフル、メントール、カラミン)を使用する。小水疱(1〜2cm以下)は破らずに放置すべきである(※13)
大型水疱は破れやすいので(水疱液はマスタードを含まない)注意深く破疱する。剥離面は1日3〜4回生理食塩水や滅菌水で洗浄し、その後スルファジアジンやマフェニドの抗菌剤で厚さ1〜2mm塗布した上で開放性にしておく。びらん部位の処置や消毒時には、止痒剤や鎮痛剤を試みてもよい。
体液量と電解質はモニターすべきであるが、重症熱傷と異なるので過剰輸液に注意しなくてはならない。

眼障害

低濃度曝露による結膜刺激は十分に洗浄されれば、その後の重篤な眼疾患の予防になる。ホマトロピン(または他の抗コリン剤)眼軟膏やワセリンは癒着を予防または軽減する。局所的に抗生剤を日に数回使用すれば感染頻度を下げ、感染の重症化を予防する。
局所の鎮痛剤投与は、受傷後重篤な眼瞼痙攣のために十分な検査ができない場合には有用であるが、それ以外では極力使用せず、内服や注射を使用すべきである。局所ステロイド使用の効果は、実証されていない。サングラスの使用は羞明をやわらげる。

呼吸器系

上気道症状(咽頭痛、乾性咳嗽、嗄声)には、ネブライザーの使用や鎮咳剤の投与を行う。被曝12〜24時間後の発熱、白血球増多、湿性咳嗽、呼吸困難は細菌感染併発を示唆するが、多くは無菌性気管支炎や肺炎であり抗生剤開始は慎重に判断しなければならない。
細菌感染は3日目頃より併発し、発熱、レントゲン上の浸潤影、喀痰増加、 喀痰性状の膿性変化を伴う。喉頭痙攣や浮腫で挿管が困難か不可能になる前に挿管を行い、呼吸を改善させ壊死/炎症組織の吸引除去を容易にする。気管支痙攣には気管支拡張剤が有効であり、気管支拡張剤が無効時はステロイドを試みることもあるが、ステロイド使用の利点についての医学的証拠は乏しい。継続的に人工呼吸を必要とする状態は、予後不良を示唆する。
曝露後5〜10日で、呼吸不全と骨髄抑制に起因する感染症で、しばしば患者は死亡する。

その他

嘔気・嘔吐には、制吐剤、アトロピン(0.4〜0.6mgの筋注または静注)を使用する。持続する嘔吐や曝露数日後の重症下痢症は、全身中毒の消化管への直接作用と考えられ予後不良である。骨髄抑制に対しては、サイトカイン療法(G-CSF、エリスロポエチン)さらなる重症例では幹細胞移植が有用と推測される。
マスタードは吸収後、体内で急速に変性することから特異的治療法はないが、体液/電解質管理を含む全身管理は重要である。動物実験では、チオ硫酸塩などの硫黄化合物を曝露前か曝露後20分以内の投与にて全身症状の軽減がみられたが、ヒトでは実証されていない(※14)
軽度の皮膚、眼、肺障害患者は対症療法にて日常生活が可能であるが、重症者では復帰まで1週間〜1年、時にはそれ以上の期間を要する。

同定とトリアージ

初動対応要員は、患者の神経剤曝露時の初期徴候(視野が薄暗くなる、結膜充血、鼻汁、胸部圧迫感、軽度の筋力低下など)の有無をまず確認しなければならない。周辺の植物や小動物の変化にも注意を向け、様々な異変があれば直ち周囲に警告を発するべきである。
救助チームのすべてのメンバーは化学防護衣をまず装着し、もし曝露が疑われるなら拮抗剤(アトロピン・PAM)投与を考慮する。初動対応要員は神経剤曝露を疑った時には、まず患者と救護者自身のさらなる曝露からの防護をしなければならない。
意識がなく、痙攣中または痙攣後で、呼吸困難や無呼吸で弛緩状態にある重症患者であっても、血圧などの循環動態が保たれていれば適切・迅速な治療で救命可能である。これらの患者は、適切な治療が受けられる場合、緊急治療群(赤)に分類される。縮瞳、眼のかすみ、鼻汁があり全身状態やや不良で軽度の呼吸困難を伴うが、意識や自発呼吸があり痙攣のない患者は最小治療群(黄)に分類され、治療で高い生存率を示す。
歩行・会話可能な患者は呼吸可能で血行動態も保たれており、治療待機群(緑)に分類される。何れにしても経過観察を十分に行い、再度トリアージを実施し、必要に応じ治療を行なう。

長期影響

マスタードは、変異誘発物質、発癌物質に分類される。工場労働者などとして数年間持続的に曝露した場合のマスタードと上気道癌との関連性が報告されている。
しかし、ただ1度の曝露との呼吸器系癌の発生との関連性については良く分かっていない。イラン・イラク戦争で見られた新しい合併症は遅発性の気管/気管支狭窄である。
第一次大戦の資料から、大量曝露時には慢性気管支炎など呼吸器疾患や慢性結膜炎、遅発性角膜炎などの重篤な眼疾患が生じることが知られている。皮膚瘢痕や色素沈着は重症皮膚病変の後に生じ、皮膚瘢痕から皮膚癌が時に発症する。

B ルイサイト(L)

概要

ルイサイト類は三塩化ヒ素誘導体のびらん剤で、多くの酵素のチオール類と結合し人体に作用する。しかしその正確な生物学的活性のメカニズムは、不明である。1〜3の3種類存在するが、一般的にはルイサイト1をルイサイト(L)と呼ぶ。
ルイサイト1が、皮膚に対する毒性が最も強い。ルイサイト(Lewisite)は米国のLewisが1918年に合成し、毒性の強さを誇り"死の露"と称された。油っぽい無色液体でゼラニウム臭があり、マスタードより揮発しやすい。
作用発現がマスタードに比べ4倍早く、曝露後直ちに眼・皮膚・気道粘膜にびらんを発生させ、組織障害には数時間を要する。

臨床症状

ルイサイトは曝露量(Ct)約8mg/m3/minで、鼻の刺激感が出現する。液体のルイサイトは14µgで皮膚にびらんを生じる。ルイサイトの致死量はマスタードと同様であり、そのLD50は皮膚曝露で約2.8gである。ルイサイトはマスタードと異なり、蒸気でも液体曝露でも直ちに疼痛と刺激を生じる。
液体のルイサイトが皮膚に付着すれば灼熱感を覚えるため、除去しようとするであろうし、また蒸気曝露では非常に刺激臭が強くマスクを必要とし、汚染地域から脱出しようとするであろう。
また、被災者は直ちに除染を試みるため、汚染部もマスタードほど重篤にはならない。今日までヒトがルイサイトに曝露されたデータはほとんどなく、以下は動物実験に基づくものである。
液体ルイサイトに皮膚が接触すると5分以内に、表皮は壊死する。マスタードよりも早く紅斑、水疱を形成し重篤なことが多い。病変は12-18時間経たないと全体像が現れてこない。マスタードよりも、組織壊死・脱落は重篤である。ルイサイトが眼に付着すると、疼痛と眼瞼痙攣を生じ、結膜炎や眼瞼浮腫が引き続いて起こる。1時間以内に、眼瞼浮腫で眼が開かなくなることもある。
被曝量が多ければ、虹彩炎や角膜損傷が生じる。ルサイトの気道への影響は、鼻や上気道の強烈な刺激感である。ルイサイトはマスタードと同様に、容量依存性に呼吸器系への徴候・症状を呈する。ルイサイトは毛細血管透過性を亢進させ、循環血液量減少・脱水・ショック・臓器うっ血を引き起こす。
そしてマスタードより重篤な消化器症状(嘔吐/下痢)を伴った肝・腎不全を惹起する。ルイサイトはマスタードのように造血器を障害しないが、毛細血管からの循環体液損失があり体液バランスに注意する必要がある。

ルイサイト曝露後の臨床症状(※15)

障害部位 症状
皮膚 5分以内に表皮が壊死し灰色の病変を生じる。マスタードより早く紅斑、水疱を形成し、組織壊死・脱落は重篤である。
疼痛と眼瞼痙攣を生じ、引き続き結膜/眼瞼浮腫が生じる。被曝量が多ければ、虹彩炎/角膜損傷が出現する。
マスタードと同様の、気道徴候や症状を呈する。容量依存性で、気道末梢へ進展し、偽膜形成は著明である。肺水腫の出現例では、複雑な病態を呈し重篤である。
その他 嘔吐/下痢を伴った、肝・腎壊死を引き起こす。

(ヒトでのデータは殆どない)

治療(除染・検査所見)

ルイサイト障害を予防・軽減するには、早期除染が最も効果的である。除染は次亜塩素酸塩と大量の水で、曝露後数分以内に実施しなければならない。ルイサイトによる傷害に特異的な臨床検査は存在しない。ルイサイト治療は、マスタードに準じた対処療法が主である。
特異的解毒剤BAL(British Anti-Lewisite;ジメルカプロール)筋注は、ルイサイトの全身毒性を軽減する。
しかしながらBAL自体が毒性を有すので、注意して投与しなければならない。BAL皮膚軟膏と眼軟膏は早期除染後、直ちに使用すれば皮膚/眼障害の程度を軽減する。しかし、現在これらの軟膏は本邦では製造されていない。

C ホスゲンオキシム(CX)

ホスゲンオキシムは曝露直後より、瞬時に腐食性の皮膚・組織病変を生じる刺激性の物質である。36度未満では固体だが、固体から気化した蒸気でも症状が発現する。
ホスゲンオキシムに関する情報は非常に乏しい。ホスゲンオキシムによる皮膚病変は水疱形成を伴わないため、真の「びらん剤」ではない。気体と液体の両方とも非常に強い刺激性を有するが、その毒性のメカニズムは知られていない。吸入による50%致死曝露量(LCt50)は1,500-2,000mg/m3/minと推定される。皮膚曝露によるLD50は、25mg/kgと推定されている。
急速な灼熱感と刺激症状に続き、膨疹状の皮膚病変、眼症状や気道障害が出現する。皮膚病変は、30秒で紅斑が出現、30分で膨疹が出現し、後に壊死が生じる。非常に強い疼痛が数日間持続する。
眼症状としては、流涙を伴う一過性の刺激症状を伴う化学性結膜炎がみられる。呼吸器系への作用としては、上気道に対する激しい刺激症状と、下気道の病変として肺水腫がある。その他、消化管に出血性病変を引き起こす可能性が示唆されている。
除染は、大量の水による。特異的な検査所見や治療法はなく、治療はあくまで対症療法が中心である。皮膚病変では、他の原因による壊死性潰瘍性病変と同様の処置でよい。

ホスゲンオキシムによる臨床症状

障害部位 症状
皮膚 接触により疼痛を引き起こし、30秒で紅斑が出現、30分で膨疹が出現し、後に壊死が生じる。
非常に強い疼痛が、数日間持続する。
非常に強い疼痛を生じる。
上気道に刺激性が強く、後に肺水腫を引き起こす。
その他 消化管に出血性炎症を引き起こす可能性が示唆される。